コラム
Column第21回 EU・ジャパンフェスト 事務局からの報告
はじめに
20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれた。1914年、バルカン半島で勃発した紛争は、やがて、ヨーロッパ大陸全土に飛び火し、そして、世界各国へ戦火は広がっていった。第一次世界大戦である。それから100年が経過した。 人類は、未曾有の犠牲を伴った二つの世界大戦から何を学んだのであろうか。
筆者が原稿を書いているこの時間にも、ロシアのクリミア併合によって生じた緊迫のウクライナ情勢は、刻一刻と混迷を極め、東西冷戦の悪夢も脳裏を横切る。国際社会へ重大な影響を与えかねない状況を私たちは固唾を飲んで見守っている。
これは、1950年5月10日、欧州統合へ向け、時のフランス外相、ロベール・シューマン氏によるフランス国民議会での演説の一節である。前世紀の二つの世界大戦は、いずれもヨーロッパに端を発した。これら悲惨な歴史を二度と繰り返してはならないという強い決意と覚悟がこの言葉に込められている。
彼が訴えた「創造的な努力」とは、決して、国のリーダーや政府だけに求められることではない。国境を越えて人間一人ひとりが、手に手をとって小さな行動を起こすことを求められている。20世紀の戦争の歴史を振り返れば、その重要性は明らかだ。私たちが向き合うべき教訓は、歴史のなかにうもれている。
誰が戦争を支えたのか?
群集心理は、時として愚かな行動へ突き進み、結果として大衆は悲惨な歴史の加担者ともなりうる。カナダ生まれの気鋭の学者ロバート・ジェラテリー氏は著書「ヒトラーを支持したドイツ国民」(2001年発行)で次のように核心に迫っている。
もう一つ、太平洋戦争をめぐる日本の大衆を巡って書かれた佐藤忠男氏の著書「草の根の軍国主義」の一節も紹介しておきたい。
歴史的な評価は後世に委ねるとしても、近年のアメリカによるイラク侵攻をはじめ、昨今のロシアによるクリミア併合などは、国民の熱狂的な支持なくしては、その展開はありえなかったことは明白である。
芸術は無力なのか?
混迷を深めるウクライナ情勢から、局地的な紛争の連鎖とその拡大が懸念される。ウクライナと国境を接しているEUの4ヵ国、ルーマニア、ハンガリー、スロバキア、ポーランドは、私たちにとっても欧州文化首都活動を通じて、深い縁で結ばれている。とりわけ、2013年の欧州文化首都コシツェ(スロバキア)はウクライナ国境近くに位置している。冷戦体制時代から長年に渡り、多くのウクライナ人アーティストがこの街の芸術文化活動に重要な役割を担ってきた。昨年、欧州文化首都に参加した日本人アーティストたちも彼らとの交流を深めただけに、芸術文化という運命共同体の一員として決して対岸の火事ではない。
先日、訪れたポーランドのヴロツワフでは、多くのアーティストが広場に集まり、凍える寒気のなかで、蝋燭の灯火を手にウクライナの同胞たちのために祈りを捧げていた。その光景を前にして、私の胸に去来したことがあった。 それは1990年代初頭、ユーゴスラビア内戦下のサラエボで、砲弾の飛び交うなか続けられている演劇活動を支援しようと立ち上がった欧州各国アーティストによる連帯のことだった。 「芸術は世界を救えるか?」という大見出しが、支援を呼びかけるポスターを飾った。戦火のなか、アーティストたちの活動が、和平へ向けて何の役に立ったわけでもない。 しかし、激戦のなか、死の恐怖に恐れおののく人々にとって、芸術の存在が「生きること」へ、わずかな希望を与えたことは確かだ。絶望の淵に追いやられたサラエボ市民にとって、「芸術」の存在が生きていることを実感させ、 彼らにとって、暗闇の向こうに微かに見える希望の光となった。
当時、1993年の欧州文化首都アントワープの実行委員長を務め、この連帯活動を推進したエリック・アントニス氏は、後日私にこう語ってくれた。「芸術は世界を救えるか?その答えはNOだ。しかし、芸術なくして、人間にとっての真の繁栄もありえない。だからこそ、私たちは、人間一人ひとりが芸術を通して生きることを見つめ、考え、周りと語り合う機会を作ろうとしているのだ。それが、欧州文化首都の使命でもある。」
欧州文化首都とは
1980年代、EC(欧州共同体)は政治・経済分野で統合を進める一方で、文化の多様性と創造性を尊重する取り組みに着手した。それが、当時のフランスの文化大臣ジャック・ラング氏が奔走し、ギリシャの文化大臣メリナ・メルクーリ女史を提案者として1985年に発足した「欧州文化首都」である。しかし、鳴り物入りで始まったこの活動も、加盟各国の文化省が強大な権限を握っていたこともあり、ブラッセルのEC官僚の思惑通りに進まなかった。
現在のように、当時のEC加盟の10ヶ国が持ち回りで開催する協力体制が最初から機能できた訳ではなかったが、1990年のグラスゴーでは、地域のアーティスト、住民、あらゆる公共施設が一体となった活動を展開し、高い評価を得た。やがて、開催都市の地域の文化に特化していた活動は、「文化は世界共有の財産」という新たに加わった視点により、欧州文化首都のあり方に厚みがました。
1993年には、歴史的な欧州統合を契機に世界各国へ参加が呼びかけられ、それを受けて、日本では欧州文化首都が主導する日本関連プログラムを支援するために、NGOのEU・ジャパンフェスト日本委員会が設立された。以来、今日まで日本の経済界による協力を得ながら、欧州文化首都への支援活動が続けられている。2013年のスロバキアのコシツェとフランスのマルセイユ・プロヴァンスを含めると、日本が支援した開催地は、延べ22カ国、合計33都市を数える。いずれの都市でも、開催年を新たなスタートとして、その後も自立した双方向の交流が続けられている。結果として、日本はこの21年間、欧州文化首都に毎年続けて参加してきた唯一の国である。それは、私たちの心密かな誇りでもある。
欧州文化首都のグローバル化
先に触れたように欧州文化首都は、1993年の欧州統合を契機に、域内のプロジェクトから、地球全体を視界に入れた取り組みへと歩みだした。ベルリンの崩壊から10年目にあたる1999年には、旧東ドイツのワイマールが開催都市となった。開幕に際して、ドイツ連邦共和国ローマン・ヘルツォーク大統領は、このワイマールにちなんでゲーテ(1749~1832)の言葉「人間と文化の結びつきについて」を引用した。
二世紀を経た今日でも、この言葉は新鮮な響きで、私たちの進むべき道の先々を照らしている。戦後、ドイツ政府により設立された文化機関「ゲーテ・インスティトゥート」の活動は、国威発揚ではなく、地球全体の芸術文化に目を向ける幅広い取り組みで知られる。この機関のサイトの冒頭には、ゲーテの『ファウスト』より引用した言葉「ここでは私は人間だ、ここでは私はそれであってよい。」が掲げられ、 芸術文化に対する彼らの姿勢が伝わってくるようで心地よい。
2013年の2つの欧州文化首都コシツェとマルセイユ・プロヴァンスへの参加国は100カ国近くに迫った。長い年月を積み重ね、欧州文化首都はEUプロジェクトとしての枠組みから大きく飛躍し、今ではグローバルな役割と使命を託されるようになった。欧州文化首都は、世界から芸術文化と人間を呼び込み、壮大な文化の受信と創造を繰り広げる世界で唯一無二の活動へと発展を続けている。
国際化から、グローバル化へと移行する現代
二つの大戦を経て、20世紀には、多くの「国民国家」が誕生し、「国家制」を前提とした国際社会を形成するようになった。「国際」とは、「国の際」のことであり、国際連合など国際機関の誕生も20世紀の特徴だった。
しかし、21世紀に入り、地球全体を包み込む情報通信の革命的発展、国境を越えた経済活動の拡大によって、「国民国家」を基本単位として構成してきた国際社会のあり方が根底から変貌しつつある。
次々と生じる地球規模の課題の多くは、もはや「国家対国家」という2国間の政治、外交関係だけでは解決することは不可能だ。各国には、国家としての存在に加えて、グローバル社会を構成する一員として、新たな責任と義務も課せられるようになった。グローバル化は、地球全体が運命共同体になりつつあることを示している。
一方、経済活動においても、企業の多国籍化は、グローバル化の産物である。かつて高品質が売り物の「メードインジャパン」は重宝されたが、多くの製品が、世界各国で生産されるようになった現在は、生産国を問われることはなくなった。グローバルな視点での人材の育成、製品の高品質化、サービス体制の強化などをいかに推し進めることができるかがグローバル企業にとっての発展の鍵を握っているのだ。企業に問われるのは、その国籍でも発祥の地でもない。グローバル企業は独自のアイデンティティを育みつつ、今後、多国籍化そして無国籍化へと前進してゆくのではないだろうか。
グローバル化での文化の継承と創造とは?
文化も経済と同様に、グローバル化によって、新たな局面を迎えつつある。近年の欧州文化首都の活動を例にとっても、その顕著な潮流や変化を実感することが多くなった。例えば、将棋、囲碁、盆栽、狂言、俳句といった分野は、これまで私たち日本人が伝統文化だと認識していた。少なくとも筆者はそう漠然と考えてきた。しかし、現実は、大きく変わろうとしている。これらの文化は、すでに長い月日をかけ、国境を越え、各地域で徐々に関心を集め、地元の文化の一つとして、着実に育ってきている。毎年の欧州文化首都は、域外の文化の発芽にも目を向け、地域の文化活動に新たな刺激をあたえている。ここで、日本に縁の深い文化の発展ぶりについて、その模様の一部を報告したい。
チェスと類似点も多いことやその奥深さが評価され、世界的に広まりつつある。地元の愛好家たちが、将棋や囲碁を「言葉を使わない人間同士の対話」であると定義していることも大変興味深い。欧州文化首都マルセイユでは、地元チェス協会やフランス将棋連盟が日本の民間団体「世界に将棋を広める会」と協力し、史上初の「チェス・将棋バイアスロン大会」を開催し大きな反響を呼んだ。
ヨーロッパの盆栽ブームは、日本からの働きかけがきっかけとなったが、この半世紀で世界各国に広く受け入れられてきた。年代を問わず、若者から高齢者に至るまで、幅広い層で愛好者が増えている。すでに、地元の文化として根付いており、「大自然との対話」「生死を巡る対話」といった哲学的なテーマが彼らの盆栽活動のなかに織り込まれていることに敬意を表したい。欧州文化首都開催を契機として、日本の盆栽師との交流もさらに拡大しつつある。日本からは文化庁により、若手盆栽師が文化交流使としてヨーロッパ各国に派遣されており、文化の発信と受信の双方向の体制が整いつつある。欧州文化首都コシツェにおける盆栽展では、盆栽家としても知られるスロバキア大統領も自作の盆栽3点を出展し話題となった。
2000年の欧州文化首都がプラハ(チェコ)で開催されたことが契機となり、狂言への関心が高まった。まもなく、チェコ人の狂言役者団体「なごみ狂言会」がヒーブル・オンジェイ氏を中心に設立された。以来、今日まで日本における研修やチェコでの茂山家の狂言師による指導といった研鑽が重ねられてきた。2013年には、文化庁の文化交流使として、狂言師茂山宗彦氏が一年間、プラハに滞在、地元の活動の指導にあたった。その後、その成果は、欧州文化首都コシツェをはじめ欧州各国で披露された。狂言は、もはや日本の伝統文化というより、「世界の舞台芸術のひとつ」として位置づけられつつある。
2004年の欧州文化首都ジェノバにおける「詩のフェスティバル」は、日欧の詩人交流の深化に拍車を掛けた。その後、東京のイタリア文化会館で行われた「日欧現代詩フェスティバル」には、ヨーロッパ14カ国の詩人が参加。ここで繰り広げられた「俳句交流」は、その後のヨーロッパにおける俳句の発展に大いに貢献した。この時、スウェーデンから、現在駐日スウェーデン大使を務めるラース・ヴァリエ氏が俳人として参加していたことが懐かしく思い出される。2009年の欧州文化首都ヴィリニュス(リトアニア)で行われた俳句プログラムには、1万5千人の市民の投稿があった。現在のEU大統領ファン=ロンパイ氏は、すでに数多くの俳句集を出すなど、俳人として知られる。彼は、「日本は俳句発祥の国であるが、いまや俳句は世界共有の哲学となった」と語っている。
これまで、日本からヨーロッパに渡った文化について触れてきたが、いうまでもなく西洋から伝わって日本に根付き、いまではヨーロッパに影響をあたえるほどに成長した文化も少なくない。たとえば、ローザンヌ国際バレエコンクールは、世界的アーティストを輩出することで知られるが、過去からの入賞者は多くの日本人が占める。また、ヴァイオリン教育では、鈴木晋一博士による「スズキメソード」が世界的に知られている。起源から、その伝播、そして発展の歴史を追いかけると、文化は、発祥の国だけで継承されるものではないことがわかる。グローバル化はさらに新たな形での文化の継承と創造に拍車を掛けている。
「長い間、感動を忘れている人のために」
昨年の欧州文化首都コシツェで開催された舞台芸術フェスティバルのテーマである。この言葉に、日々に埋没して「生きている」ことを見失っていたと気づかされた人も多かったに違いない。ハイデッガーは、「人間はいつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きていることを実感することもできない」と書いた。
文化や芸術は、維持発展するために、ある程度の商業化や産業化を伴うことが時として求められるものの、そもそもは極めて人間的な存在である。どんな人間でも、他人の心に火を灯すような物語をもっているし、心を開かなければ、どんな芸術も私たちの魂に届くことはない。ミクロの領域で人間一人ひとりの内なる声に耳を澄ますことがなければ、マクロの見地からのいかなる文化論も机上の空論にすぎない。グローバル化の先にある未来は人間らしさを伴うものであって欲しい。
22世紀を生きる子供たちのために
私が若い頃、初めて生まれた我が子のための教育費の保険をかけた。その時、満期日が21世紀の2001年となっているのを見つけ、遥か先のこととしか思えなかった。そのことをふと思い出した。いまは、すでに2014年となっている。今年、この地球に誕生する子供たちの未来に思いを馳せる。もし、彼らが健康に恵まれるとすれば、きっと22世紀に到達できるに違いない。私たちには、到底目の当たりにすることのできない次の世紀を彼らは生きるのだ。22世紀とは、どんな世界になっているのだろうか。古代から、大人たちは若者や社会を批判し、嘆き続けてきた。その何千年も繰り返してきた人間の憂いは、未来の社会に警鐘は鳴らすことはできたかもしれない。しかし、それだけでよいのだろうか。
子供たちは、いわばダイアモンドの原石だ。それを磨くのは私たち大人の責任だ。彼らの特性や芸術的才能に大人がもっと敏感になれれば、彼らの未来は人間性豊かな社会となってゆくと確信する。
私たち人間一人ひとりの力は、限られた僅かなものにすぎない。しかし、大河が一滴の雫から始まるように、私たちも22世紀を生きる子供たちのために、自らの小さな一滴を注ぎ続けることが求められる。今を生きる私たちが声を掛け合い、仲間を増やして行ければ、きっと何かをなし得るに違いない。
最後に少年たちの未来のために一生を捧げたボーイスカウトの創設者、ベーデン・パウエル卿の言葉を紹介したい。